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「阿闍梨さん」 赤山の四季

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赤山禅院 額

慈覚大師 円仁の遺言

慈覚大師 円仁(794年~864年)は、長い天台宗の歴史において、ひいては日本の仏教の歴史においても、大きな役割を果たした祖師の一人です。


慈覚大師 円仁 像

15歳で伝教大師 最澄に師事し、最澄の入滅後の838年、さらに天台教学を学ぶため、遣唐使団とともに唐に渡りました。円仁はその様子を『入唐求法巡礼行記』に詳しく記しています。
10年近くに及んだ留学は、困難を極めました。ときに唐は、晩唐の混乱期で、旅の安全が保証される状態ではなく、仏教にも非寛容だったのです。
遣唐使団が帰路についたとき、目的を果たしていなかった円仁は、登州(現在の山東省)の赤山という地で下船。土地の居留民である新羅人に親切にされ、赤山の山中にある赤山法華院に滞留します。そこで、赤山の神々に五台山巡礼を願い、成就すれば日本に赤山禅院を建てることを誓ったとされます。
円仁はその後、長い旅を続け、ついに五台山巡礼を果たし、さらに、唐の都、長安に学ぶことができました。折からの武宗皇帝の仏教弾圧に遭い、あまたの仏寺が壊され、僧が還俗させられる中、天台の秘法を修め、貴重な図画や曼荼羅、経典などを持ち帰ることとなったのです。
円仁の一行は、日本への帰路でも何度も遭難しそうになりました。そのとき、船のへさきに赤い衣を着て白羽の矢を負った赤山明神があらわれ守護した、とも伝えられています。
日本に戻った円仁は、第三世の天台座主となり、多方面にわたる精力的な活動によって天台密教の基礎を築きました。しかし、赤山禅院を建てるという念願は果たすことができませんでした。病の床についた円仁は、安慧(あんね 後に第四世天台座主)をはじめとする弟子たちを呼び、その遺言の中で、赤山禅院の建立を命じたとされます。
赤山禅院が現在の地に創建されたのは、円仁の入滅から20余年後の888年のことでした。