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赤山の御前さま


赤山禅院の住職を長く務めてきた叡南覚照 大阿闍梨は、親しみをこめて「赤山の御前さま」と呼ばれています。 1927年生まれ。1960年(昭和35年)、33歳のときに千日回峰行を満行。天台宗修験道管領をつとめる、いわゆる高僧でありながら、気さくな人柄や型破りな発想が、多くの人から慕われてきました。 叡南覚照 大阿闍梨は現在、赤山禅院の住職を、弟子である叡南俊照 大阿闍梨に譲り、赤山禅院にて療養中です。


赤山の御前さま
赤山の御前さま/目次

御前さまの神通力 御前さまの回峰行 御前さまの堂入り

<筆者プロフィール>
福田 徳衍(ふくだ とくえん)
俗名 徳郎。1936年、東京・目黒生まれ。12歳から22歳まで比叡山で小僧として過ごした。大谷大学卒業後、朝日新聞社に入社。新聞記者、週刊朝日などで活躍し、出版局写真部長を務める。その頃の司馬遼太郎氏との親交は「街道をゆく 16 叡山の諸道」に詳しい。 定年退職した今も、写真家・文筆家として活動し、講演も多数こなす。著書に『仏陀の旅』『アジャンター石窟寺院』朝日新聞社、『定年後は心をこめて花を撮ろう』亜紀書房などがある。



御前さまの神通力




 私が無動寺谷へ登った時の小僧頭(がしら)は「赤山の御前さま」こと叡南覚照さんだった。俗名木村和男、祖賢さんの師匠の叡南覚誠さんの弟子となって十三歳で得度、祖賢さんの千日回峰行の最初から満行まで仕えたから無動寺谷はおろか、比叡山全体が掌(たなごころ)を指すように判っていた。名古屋生まれ。写真でみるように飛び抜けたハンサム。ハイカラでお洒落。鋭い勘が“神通力”のように働いて、私が山から京都へ逃げ出したり、悪いことをすると必ずといってよい程覚照さんに見つかった。

「ぼん、一緒に行ってやるさかい、阿闍梨さんに手をついて謝れ」と、よく師匠の前で一緒になって頭を下げてもらった。いつだったか師匠の虫の居所が悪かったのか「徳衍も悪いが、ワレもやー」と、なぜか覚照さんまで長いキセルで頭を叩かれてしまったことがある。その時は「本当に申し訳ない」と、深く反省した。

 それだけに覚照さんがほどなく住職になり、千日回峰のお行に入ると、小僧たちは懸命に応援した。明王堂の中で足かけ九日間、断食断水の堂入りの行中、小僧たちが堂内にまるでお祭りのように、あふれんばかりに付き添ったのだ。ついでながら覚照さんの一番弟子が山麓律院の叡南(内海)俊照さんである。

 昭和四十五年十二月、祖賢さんがすい臓ガンを患い、京都府立病院で手術をしたが、明けて正月、危篤に陥った。夜も更けたころ覚照さんが「これからオヤジを里坊へお連れする。坊さまは病院でなく寺でなくなるのが本当や。しかもオヤジは行者や。道中で容態が急変することはない」ときっぱり決断。重体の病人を寝台車で二十数キロ。坂本の慈門庵までお連れした。

 それまでは口もきけなかった祖賢さんが死の床でばっちりと目を開き、枕元の二十数名を一人一人確かめるようにして「よかった、よかった、みんなそろっているか。あんじょう、なかようやれよ」と、息を切らせつつ言い終えたのち、枕元で弟子たちの唱える法華経を聞きながら臨終を迎えた。

 このときこそ、覚照さんの“神通力”をまざまざと目のあたり見る思いがしたものだった。


<出典>平成19年2月8日付「比叡山時報 祖賢さんの弟子たち(4)」より



御前さまの回峰行


 春三月、雪の残る比叡山の行者道を回峰行者が巡拝する季節がやってきた。小僧のころは雪が深く、三月の彼岸でも吹きだまりには1メートル近い残雪があった。「行者が難儀するから道を開けろ」と兄弟子に言われ、登校前にケーブル駅上の西尊院堂を経て南光坊へ下がる谷道をスコップで人が通れるほどに少しずつ除雪したものだった。



 写真は赤山の御前さまの叡南覚照さんが千日回峰の行中、無動寺に出入りしている坂本のご婦人たちとのスナップだ。撮影の前、おばちゃんたちは道ばたに蹲踞し、覚照さんから数珠でお加持を戴いた。そのあとのひととき、朗らかな冗談が口をついて出るハンサムな行者さんに笑いが絶えない。

 が、兄弟子としては厳しかった。律院の叡南俊照大阿闍梨さんは覚照さんの一番弟子だが、ある日の夕方、師匠の依頼品を忘れ、夕闇の山へ帰ってきた。「あかーん俊照。これからすぐ下がって取ってこい」。ケーブルはとっくにない。高校生だった俊照さんは空腹を抱えてただ一人、真っ暗で急峻のつづく無動寺道を燈火も持たずに下がっていった。

 昭和52年秋、世間ではロッキード事件が起こり、取材で飛び回っていた私は重篤だった父の死に目に会えなかった。里坊に駆けつけたとき、父の遺骸の前に端然と座った覚照さんが「徳よ、ワレが遺弟じゃ。ワシがいるさかい、あんじょうオヤジさんを送れ。まず、頭を丸めてこい」といった。

 今秋、父の三十三回忌を迎える。


<出典>平成20年4月8日付「比叡山時報」より



御前さまの堂入り


 昨年秋、無動寺谷では久々に光永圓道行者さんの堂入りが厳粛、かつ盛大に行われた。

 私が小僧のころ、赤山の御前さまこと叡南覚照師が堂入りを。その前に葉上照澄師や他の大行満の先達さまも堂入りの苦行をされたが、覚照師の堂入りを私が撮影した写真が手元に幾枚か残っている。

 覚照師は私ども小僧の筆頭だったから、親しみが血の通った兄弟以上にあって、苦行の期間中ずっと明王堂の裏堂に詰めていても写真を撮りたくてたまらない私に「徳よ、われは写真を撮っていろ」とでも云って下さったのだろうか。



 写真は断食、断水、不眠、不臥の足かけ9日間、行を終えた夜明け、杖を片手に明王堂から出堂する眼光鋭く毅然とした覚照行者さんと、介添えには故葉上大阿闍梨さんが同じく行衣姿で付き添い、その後ろには故小鴨覚禅師が従っている。

 この時代、叡山にはまだ自動車道路もなく、ケーブルカーも秋の運行ダイヤで夕方には終わってしまい、出堂の「生き仏さま」を拝む息障講の信者さんがたは、前日の夕方から無動寺谷のいくつかのお堂にあふれんばかり。その人々が夜を徹して不動明王の真言を唱えて、覚照師の出堂を待ち続けた。

 夜明けが近づき、お堂の扉が左右にひらかれる。ろうそくの光で鬱金色に染まった薄ぼんやりとした堂内から白衣の行者さんがゆらり~と現れると、堂の外にあふれた信者さんから一斉に大きなため息が聞こえ、続いて、読経と真言の入り混ざった合唱が無動寺の深い樹林の谷間に吸い込まれ、やがて谷の底からこだまになって戻ってくるのだった。


<出典>平成20年5月8日付「比叡山時報」より